[世界史の理解]
2023年01月22日
日独伊三国同盟とリッベントロップ(8)
『リッベントロップは金のために妻(アネリーゼ)と結婚し、貴族の称号(フォン)のために叔母の面倒を見て、外相の地位のためにヒトラーに接近した』はゲッベルス宣伝相の言葉ですが、リッベントロップのライバルの1人であったことを考慮に入れなくてはいけませんがある程度は、野心家のリッベントロップを適切に描写しているでしょう。前者2人はともかく、ヒトラーに関しては利用したつもりが利用されていることが他の幹部にも見られます。ナチスドイツにおいては、大臣も将軍も長官も総督もヒトラーの部下にすぎないので、ヒトラーに気に入られなければすぐに捨てられるのです。気に入られるためには、ヒトラーのヨーロッパ征服かユダヤ人のいないヨーロッパに貢献しなければならなくなります。前者はモスクワの占領失敗とアメリカ参戦で不可能になったため、後者のユダヤ人へのジェノサイドに加担することになったのです。リッベントロップの外相としての活躍はアメリカ参戦で終わりを告げますが、それにつながることになったのが日独伊三国同盟であったわけです。この日独伊三国同盟締結までの対英戦での制空権の確保の失敗と英本土上陸延期、締結後の6000キロのヒトラーとの旅も全てイギリスを何とか屈服させようとするためのものでした。他方、日本はこの条約をアメリカに対して使いたかったのですが、ここでもイギリス降伏が前提になっているのでした。加えて、リッベントロップも松岡洋右外相も日独伊三国同盟にソ連を加えることでアメリカ参戦への抑止力としたかったわけです。イギリスを降伏させるためにヒトラーが1940年11月に決定したのがソ連攻撃でした。これはナポレオンがトラファルガー海戦でイギリス本土上陸を断念、大陸封鎖政策でイギリスを締め上げようとしたが逆にフランスや大陸諸国の方が苦しんだため、ロシア遠征に至りそれがナポレオンの没落になったのと似ています。日本は本国の皇紀2600年のお祭り気分の延長か独ソ開戦までが日独交流が最も盛んであったのは皮肉なことでした。