[世界史の理解]
2023年04月22日
リッベントロップと日独伊三国同盟(2)総統官邸
ベルリンのミッテ地区ヴィルヘルム街77番地を78番地に拡張して1939年1月12日の新年祝賀会で正式に使用される。この会には大島浩駐独大使も招待されている。ベルリンはゲルマニアと呼ばれることになり、その都市計画の一環として日本と隣のイタリア大使館は、ヒトラーお気に入りのモースハマーやピンナウらにより計画され建設されることになった。大戦末期の空襲及びソ連軍による攻撃によりベルリン中心部はほとんど廃墟になったが、日本大使館は全壊を免れた。数々の政治外交上の舞台になり戦後はナチスの象徴として1949年から1953年にかけて完全に解体された。数百メートルも続く大理石張りの『大理石のギャラリー』やヒトラーお気に入りの建築家のアルノ=ブレカーによる『党』の彫刻などが有名であるが、ベルクホーフと同じく来訪者を瞬時に圧倒しようとする意図が感じられる。日本大使館は戦後どうなったかというと、一時学校として使用されたことがあったが、それ以外は放置された。一等地に置かれた東京のドイツ大使館がすぐに壊され国立国会図書館になったのとは対照的であった。1980年代に再建計画が持ち上がり、有名な建築家の黒川紀章らによる修復改築が行われた。日独共同センターとして使用されることになり現天皇の皇太子時代に記念の植樹をされた写真が残っている。ドイツ統一後は日本大使館として使用されることになるが、総統官邸と同じくシュペーアやブレカーらも関わるこの時代の建造物として貴重なものとなった。この大使館では、度々パーティが開催され、大島浩には非常に親切だったリッベントロップはもちろん、ベルリン市長でもあったゲッベルスも訪れ自慢のピアノの腕を、得意のベートーヴェンソナタ第8番『悲愴』で披露して列席者を沸かせた場所でもあった。詳しくは三国同盟秘史でどうぞ