[世界史の理解]
2023年04月26日
リッベントロップと日独伊三国同盟(3)イタリア代表団
当研究所の表紙写真は右から撮られたもので来栖三郎日本大使の後ろにいるイタリア代表団が見えません。この日独伊三国同盟は1939年5月の独伊鋼鉄条約に基づいているのだからイタリアの方が日本より主役のはずだが影が薄いのです。ベルリンでの調印式はチアノイタリア外相の到着遅れにより13時から行われたので、東京は8時間遅れの21時から近衛首相ではなく松岡洋右外相公邸での開催となりシャンパーニュ片手の祝賀会の写真は有名だが、ローマでの祝賀会の写真は見たことがありません。それをよく表しているのが一番前で軍服姿でで面長のデイーノ・アルフィエリイタリア大使です。日本での祝賀会が、調印しているチアノ外相と同じくドイツの戦争に参加することには反対でした。それにしては、あまりにもナチス幹部との屈託ない笑顔での写真が多すぎます。リッベントロップはもちろん、ゲッベルス、ヒムラー、ゲーリング、ヘスなどあまりにも仲良く見え過ぎです。これでは裏切りが判明すれば恨まれることになるでしょう。親独中立くらいでよかったのですが、ドイツの圧勝とムッソリーニの意向によりドイツと一蓮托生となってしまいました。1943年7月の大評議会でも2人はムッソリーニ退陣要求に賛成したため、イタリア全土占領作戦によりチアノは逮捕処刑、アルフィエリは辛くもスイスへ逃亡したがベローナ裁判で欠席裁判を受け死刑判決となりました。覚悟もないのにドイツについていったのは日本と似ている面もありましたが、イタリアは統一戦争から第二次世界大戦まで最初と最後で所属する陣営が異なるのはいつも通りとも言えるのでした。